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中村 稔(なかむら みのる、1938年9月28日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)・プロ野球コーチ・野球解説者。 == 来歴 == 三重県伊勢市出身。中村自身は三重県出身で戦前の東京巨人軍のエースだった沢村栄治とは親戚であったという〔『川上哲治元監督を悼む』日刊ゲンダイ 2013年10月31日発行 35面での中村稔本人による寄稿より。〕。宇治山田商工高校卒業後のに読売ジャイアンツ(巨人)に入団。 新人から4年間はわずか3勝を挙げたのみであった。5年目のに参加したベロビーチキャンプでドン・ドライスデールから直接指導を受けてチェンジアップを習得〔『ジャイアンツ栄光の70年』54頁〕、この年17勝10敗防御率2.13(セ・リーグ6位)をマークしてチームの勝ち頭となり、川上哲治監督の初優勝に貢献する。翌7月10日ナゴヤ球場での中日との試合後、翌日は先発投手を務める予定であったにもかかわらず、宿舎で禁じられていたビールを同室の堀内庄・伊藤芳明と飲んでいたところをヘッドコーチの別所毅彦に見つかり叱責を受ける。この一件を週刊誌が「殴打事件」と報道したことから問題が大きくなったため、球団側が別所に謹慎処分を科すとともに二軍コーチへの降格を命じるが、別所は命令の受け入れを拒み、退団している〔『巨人軍 陰のベストナイン』137頁〕。この年、中村は9勝12敗防御率2.28(セ・リーグ9位)とやや成績を落とした。その後は肩を痛めて年々成績を落とし、は春先に交通事故を起こしたこともあり〔、勝ち星を挙げられずに終わる。しかし、翌に復活して20勝4敗防御率2.21(セ・リーグ5位)を記録、城之内邦雄(21勝)・宮田征典(20勝)とともに1チーム内で3人が20勝投手となり、巨人V9の初年度の優勝に貢献した。その後は再び年々成績を落とし、0勝に終わった限りで現役を引退した。 引退後はからまで巨人の二軍投手コーチを務めた。に藤田元司が監督に就任し、一軍投手コーチに招聘される。その後も藤田が監督を務めた際は、必ず投手コーチに中村を起用していた。 また、からまでは日本テレビ、からおよびからまではRFラジオ日本の野球解説者を務めた。なお、江川卓のプロ初登板試合を解説者として見ている。 に近藤昭仁の千葉ロッテマリーンズ監督就任に伴い一軍投手コーチに就任。投手陣の整備に従事し、チーム防御率の改善に貢献したが、翌シーズン途中(6月30日)にチームの記録的連敗の責任を問われ、コーチを解任された。 その後は、から頃にかけてJスカイスポーツで解説者として活動していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村稔 (投手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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